だっきたん小屋

主に読書記録ですが、話があちこちに飛ぶ傾向があります。

内村鑑三「一日一生」メモ・十一月十ニ日「愛」



国立国会図書館のデジタルコレクションで公開されている、内村鑑三の「一日一生」を、一日一ページづつ読んでいます。



本書で一日ごとに引用されている聖書のことばについては、Wikisauceの文語版聖書、および、口語訳聖書を参照し、そちらに差し替えています。


また、読みやすいように、ある程度、新字新かな表記に、あらためてみています。(目下試行錯誤中です)



十一月十二日 


たとひ我もろもろの國人の言および御使の言を語るとも、愛なくば鳴る鐘や響く鐃鈸(にゅうはち)の如し。


假令われ預言する能力あり、又すべての奧義と凡ての知識とに達し、また山を移すほどの大なる信仰ありとも、愛なくば數ふるに足らず。


たとひ我わが財産をことごとく施し、又わが體を燒かるる爲に付すとも、愛なくば我に益なし。


愛は寛容にして慈悲あり。愛は妬まず、愛は誇らず、驕らず、非禮を行はず、己の利を求めず、憤ほらず、人の惡を念はず、不義を喜ばずして、眞理の喜ぶところを喜び、凡そ事忍び、おほよそ事信じ、おほよそ事望み、おほよそ事耐ふるなり。


(コリント前書 13章1-7節) 文語訳




たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢(にゅうはち)と同じである。


たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。


たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。


愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。


不義を喜ばないで真理を喜ぶ。


そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。



(コリント人への第一の手紙 13章1-7節) 口語訳



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神の神たるは人の善きを思うて悪しきを思わざるにあり。悪魔の悪魔たるは、人の悪しきをのみ思い得て人の善きを思い得ざるにあり。


神は人の善性を喚起奨励して世を救い、悪魔は彼の悪性を刺激増長してついにこれを亡ぼす。


救済(すくい)といい、改良といい、善の奨励にほかならざるなり。



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「愛は寛容にして慈悲あり。愛は妬まず、愛は誇らず、驕らず、非禮を行はず、己の利を求めず、憤ほらず、人の惡を念はず」


このように説明される「愛」の性質を、ことごとくひっくり返してみると、


非寛容で無慈悲で怒りに満ちた態度を貫き、妬みや驕りの心に根差した無礼な侮蔑の言葉ばかりを使い、相手を自分の都合のいい道具と考える


見事な「毒親」の説明になります。


毒親(読み)どくおや


子どもを自分の支配下に置き、その人生に有害な影響を与える親を指す俗語。米国の精神医学者スーザン・フォワードによる書籍『毒になる親』から派生した造語で、同書の邦訳版が1999年に出版されて以降、広く知られるようになった。子どもへの暴力的・性的な虐待や育児放棄だけでなく、精神的な虐待や過度な干渉も毒親の特徴とされる。毒親による歪んだ親子関係は子どもに深刻な心的外傷を与え、その影響で成人後も対人関係に問題を抱えたり、依存症に陥ったりして苦しむケースも少なくない。(2015-4-09)


(コトバンク 知恵蔵miniの解説 )




また、「毒教師」「バワハラ・モラハラ上司」の説明としても、通用しそうです。


こんな人物に身近に居座られて、刺激増長を受け続けたら、歪んだ人格に育って加害の連鎖を引き起こすか、うつ病などになって苦しむようになるかの、どちらかだろうと思います。


愛がなければ人は亡びるというのは、そういう意味でもそのとおりだと思います。