だっきたん小屋

主に読書記録ですが、話があちこちに飛ぶ傾向があります。

皮肉

「正しい」という印のついた主張の周りには、対立や、憎悪が多く巻き起こるのは、なぜなのか。


あなたがたに言っておく。女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人物はいない。しかし、神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい。


これを聞いた民衆は皆、また取税人たちも、ヨハネのバプテスマを受けて神の正しいことを認めた。


(しかし、パリサイ人と律法学者たちとは彼からバプテスマを受けないで、自分たちに対する神のみこころを無にした。) 


  (ルカによる福音書 7章 28-30節)



聖書を読んでいると、人々が分断され、互いに存在を否定しあう姿は、古代社会においても、現代と変わりなく見られたのだということが分かります。


自分が正しいと強く思う人ほど、心がかたくなになると同時に、「正しくない」相手を排斥し、罰しようとする心が強くなるものだと思います。


倫理や道徳にかかわることで、完全に「正しい」ふるまいをすることなど、ほんとうにあるのかどうか。強い糾弾や、懲罰を求める声が大きくしているものが、実は満たされない個人的な欲の変質したものだったりしないのかどうか、見きわめる必要があるようなことも、よくあるように思います。


聖書の中で「正しい」とされたことは、同時代ではキリスト教徒の迫害を生みましたが、時代が下ると、今度は異教や異文化の排斥を生むことになります。人間は、一体いつまで、刃物にかけられた振り子のように、揺れ動きつづけては落ちるということを繰り返すのかと思います。



(´・ω・`)