育たない種
この譬(たとえ)はこういう意味である。種は神の言である。
道ばたに落ちたのは、聞いたのち、信じることも救われることもないように、悪魔によってその心から御言が奪い取られる人たちのことである。
岩の上に落ちたのは、御言を聞いた時には喜んで受けいれるが、根が無いので、しばらくは信じていても、試錬の時が来ると、信仰を捨てる人たちのことである。
いばらの中に落ちたのは、聞いてから日を過ごすうちに、生活の心づかいや富や快楽に塞がれて、実の熟するまでにならない人たちのことである。
良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。
(ルカによる福音書 8章 11-15節)
よいことばを聞いて、学んでも、それがしっかりと根づいて育まれるような精神によって受け止められるのでなければ、学びが実を結ぶことはない・・・そういうことかなと思います。
種を路上にまいても、ハトにでも食べられてしまったら、芽は出ません。
ハトの近寄らない岩の上にまけば、発芽はするかもしれませんが、根を張りにくいから、台風でもくれば、あっさりと折れてしまうでしょう。
ハトがいなくて、土も豊かな場所にまいても、そこにいばらが生い茂っていたら、日があたらずに、枯れてしまうかもしれません。
こういうさまざまな妨害を、努力や忍耐だけで回避することなど、できるのかといわれれば、到底無理だろうと虚弱な精神を持つ私は思います。
できることがあるとすれば、少しでもお日様があたって、地面もやわらかくなって、多少なりとも自分を育んでほしいと、願い続けることくらいかもしれません。
でも、案外それが、一番大事なことではないかと、最近は思い始めています。
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