だっきたん小屋

主に読書記録ですが、話があちこちに飛ぶ傾向があります。

内村鑑三「一日一生」メモ・十一月八日



国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている、内村鑑三「一日一生」を少しづつ読んでいるので、そのメモを書き留めます。





内村鑑三「一日一生」は、1年365日分の聖書からの引用と、それについての言葉が書かれている本です。


聖書の文言も含めて、すべて旧字旧かなで書かれていますが、読みやすいように、できるだけ新字新かなにあらためてみます。聖書の文言については、Wikisourceの聖書データ(文語)を参照・引用することにします。



十一月八日



太初より有りし所のもの、我等が聞きしところ、目にて見し所、つらつら視て手觸りし所のもの、即ち生命の言につきて、


――この生命すでに顯れ、われら之を見て證をなし、その曾て父と偕に在して、今われらに顯れ給へる永遠の生命を汝らに告ぐ――


(ヨハネの第一の書 第1章 1-2節 文語訳)


初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について―


このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである―


(ヨハネの第一の手紙 第1章 1-2節 口語訳)


キリスト教は理論にあらずして事実なり、実験なり。理論のみをもってキリスト教を悟らんとするは、理論のみをもって化学を研究せんとするがごとし。理論のみをもってしては、吾人は到底キリスト教の何者たるかを了解しあたわざるなり。博士ハックスレー曰へるあり「哲理の聖殿において拝せんとするものは、まず実験室の前殿を通過せざるべからず」と。余輩もまた言わんと欲す「キリスト教の聖殿Holy of Holies)において霊なる神に接せんと欲するものは、まず心情の実験室を通過せざるべからず」と。歴史家ネアンデルのいわゆる「神学の中心は心情なり」との意も、けだしここに基するならむ。


内村鑑三 「一日一生」より(国立国会図書館デジタルデータ版参照)


http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1019336



文中の「ハックスレー博士」は、19世紀の生物学者のトマス・ヘンリー・ハクスリー博士でしょうか。


ダーウィンの進化論を擁護し、激しい論戦の矢面に立ったとして知られている、トマス・ヘンリー・ハクスリー博士は、実証を重んじる生物学者であると同時に、聖書の普及によって、科学としての進化論を、聖書の倫理、道義とを和解させようと努力したのだといいます。


旧約聖書の創世記には、多様な地上の生物が「進化論的に発生したとは」書かれていませんけれども、そうでないとも書かれていません。


世界を作った存在にとっての7日間は、1日=24時間ではなく、生物が進化を遂げるのに十分なほど、長かったかもしれません。


内村鑑三が読んだと思われる、ハクスリー博士の著作のなかで、そのあたりについて、どのように語られているのか、興味深いです。


信仰が自分の感情の事実を踏まえたものであるとする、内村鑑三の考え方にも、素直にうなづけるものがあります。聖書に限らず、多様な心情を経験していなければ、どんな本を読んだって分からないのですから。