だっきたん小屋

主に読書記録ですが、話があちこちに飛ぶ傾向があります。

育たない種



この譬(たとえ)はこういう意味である。種は神の言である。


道ばたに落ちたのは、聞いたのち、信じることも救われることもないように、悪魔によってその心から御言が奪い取られる人たちのことである。


岩の上に落ちたのは、御言を聞いた時には喜んで受けいれるが、根が無いので、しばらくは信じていても、試錬の時が来ると、信仰を捨てる人たちのことである。


いばらの中に落ちたのは、聞いてから日を過ごすうちに、生活の心づかいや富や快楽に塞がれて、実の熟するまでにならない人たちのことである。


良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。


(ルカによる福音書 8章 11-15節)


よいことばを聞いて、学んでも、それがしっかりと根づいて育まれるような精神によって受け止められるのでなければ、学びが実を結ぶことはない・・・そういうことかなと思います。



種を路上にまいても、ハトにでも食べられてしまったら、芽は出ません。


ハトの近寄らない岩の上にまけば、発芽はするかもしれませんが、根を張りにくいから、台風でもくれば、あっさりと折れてしまうでしょう。


ハトがいなくて、土も豊かな場所にまいても、そこにいばらが生い茂っていたら、日があたらずに、枯れてしまうかもしれません。


こういうさまざまな妨害を、努力や忍耐だけで回避することなど、できるのかといわれれば、到底無理だろうと虚弱な精神を持つ私は思います。


できることがあるとすれば、少しでもお日様があたって、地面もやわらかくなって、多少なりとも自分を育んでほしいと、願い続けることくらいかもしれません。


でも、案外それが、一番大事なことではないかと、最近は思い始めています。

マグダラのマリアと、マグダレンの祈り


そののちイエスは、神の国の福音を説きまた伝えながら、町々村々を巡回し続けられたが、十二弟子もお供をした。


また悪霊を追い出され病気をいやされた数名の婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラと呼ばれるマリア、ヘロデの家令クーザの妻ヨハンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒にいて、自分たちの持ち物をもって一行に奉仕した。


(ルカによる福音書 8章 1-2節)



マグダラのマリアが抱え込んでいた七つの悪霊が、どんなものだったのか。


ウィキペディアの「マグダラのマリア」のページを見ると、彼女は「罪の女」とも呼ばれ、後年は娼婦であったか考えられているとのこと。




イエスはマグダラのマリアの罪をゆるしましたが、キリスト教は、マグダラのマリアに象徴されるような、女性の罪を、厳しく断罪する宗教となっていったようです。



ノンフィクション小説として発表され、映画化もされている「マグダレンの祈り」という作品では、マグダラのマリアに由来する名前を持つ、強制収容所のような修道院の洗濯場に閉じ込められて、無報酬で働かされ、虐待を受けて苦しむありさまが描かれています。





レイプなどの被害者であるにもかかわらず、性的不品行があったと非難され、社会からはじき出される女性たちの「罪」とは何であるのか。


そうした収容所が、二十世紀末まで実在していたことに驚きますが、21世紀になっても、「MeeToo」運動が巻き起こるのですから、世の中はいまだに同じ暗さを抱え続けているのかもしれません。


この作品、残念ながら、映画はAmazonプライムビデオには入っておらず、小説も、邦訳されたものは、電子化(kindle版)されていないようです。


日本語字幕のない映画が、YouTubeにアップされていましたので、ざっと見てみました。


会話は分からなくても、収容された女性たちにとって、理不尽で救いのないものであったことは、伝わってきます。



Magdalene The Magdalene Sisters

非難


それから女の方に振り向いて、シモンに言われた、「この女を見ないか。わたしがあなたの家にはいってきた時に、あなたは足を洗う水をくれなかった。


ところが、この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でふいてくれた。あなたはわたしに接吻をしてくれなかったが、彼女はわたしが家にはいった時から、わたしの足に接吻をしてやまなかった。あなたはわたしの頭に油を塗ってくれなかったが、彼女はわたしの足に香油を塗ってくれた。


それで あなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない。


そして女に、「あなたの罪はゆるされた」と言われた。

すると同席の者たちが心の中で言いはじめた、「罪をゆるすことさえするこの人は、いったい、何者だろう」。


しかし、イエスは女にむかって言われた、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。


(ルカによる福音書 7章 44-50節)


罪の女として、街中で非難されているような女性が、悔い改めて信仰の心を深くしている姿を見ても、パリサイ人は軽蔑の心を向けるだけでした。けれども、イエスがその女性を許したので、その場にいた人々は大変驚きます。


善悪のけじめをつけることが社会を守る正義であると考えるなら、罰せられていない罪人が許されるということは、ありえないことになります。


けれども、社会的な刑罰と、その人の心が「ゆるされ」て「救われる」ことは、全く別の次元のことなのでしょう。


社会に所属して暮らしていれば、そのなかの調和を乱すような人を許せないと感じて、非難する心を持つことは、誰にでもあるものだと思いますが、それに囚われ続けると、見えなくなるものもあると思います。