だっきたん小屋

主に読書記録ですが、話があちこちに飛ぶ傾向があります。

いなご豆・キャロブ


聖書の中にでてくる食については、いろいろな人がすでに調べたり、本を出したりしていると思いますが、読んでいて目についたものを、自分でもメモしていこうと思います。



また言われた、「ある人に、ふたりのむすこがあった。ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。


(ルカによる福音書 第15章 11-16節)



「いなご豆(locust bean)」が分からなかったので、調べてみました。


キャロブ(carob)ともいわれ、地中海附近で栽培される、乾燥に強い植物とのこと。




Amazonでも取り扱われていしまた。


キャロブ(いなご豆) Amazonの写真から引用



これは乾燥したものですが、妙な迫力があります。


Amazonの商品説明によると、マメを取り除いて、さやをそのまま食べるか、お菓子などの材料に使うようです。ココアに似た風味で、カフェインは含有していないとのこと。


製菓に使いやすいように、粉末にしたものもあり、クックパッドには、それを使ったいろお菓子のレシピが、いくつも掲載されていました。





東京都武蔵野市の公式キッチンというアカウントでは、武蔵野市内の小中学校の、給食のレシピとして、「キャロブカスタードクリーム」を紹介していました。





おいしそうです。(⌒∇⌒)



けれども、聖書のなかの放蕩息子の時代には、「いなご豆」は、人の食料ではなく、家畜の飼料にされるようなものだったのでしょう。

内村鑑三「一日一生」メモ・十一月九日


内村鑑三の「一日一生」を、一日一ページづつ読んでいます。


本書で一日ごとに引用されている聖書については、Wikisauceの文語版聖書、および、口語訳聖書を参照し、そちらに差し替えています。


また、読みやすいように、旧字旧かなを、できるだけ新字新かなにあらためてみています。





十一月九日


ただ汝ら主イエス・キリストを衣よ、肉の慾のために備すな。


(ロマ書 第13章14節)


あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。


(口語訳 ローマ人への手紙 第13章14節)



イエスは我等の義である。我等は自分で織り出(い)だせし義の衣を着けて王の婚筵(こんえん)の席に出づるのではない。イエスを我が義の衣として着て王の招きに応ずるのである(マタイ伝廿二章)。


是こそは潔くして光ある細布の衣であって、「この細布は聖徒の義なり」とあるその義の衣である(黙示録十九章八節)。


これを除いて他に王の客たるに堪ふるの礼服はないのである。


善き者もこれを着て王の前に出るを得、悪しき者もまたこれを被りて聖筵にあずかることができるのである(マタイ伝廿二章八-十二節)。


信者はイエスにありて神に到り、神はイエスにありて信者を接(う)け給うのである。




ローマ人への手紙(ロマ書)の第十三章では、地上の支配者、権力者は、神の権威によって建てられたものであり、人々の益のために尽くす神の僕(しもべ)であるのだから、人々も、良心をもって支配者にしたがうべきである、と書かれている。社会の仕組みに対するキリスト教の考え方が、よく表れている箇所であると思う。


この節を引用したあとにつづく、内村鑑三のことばは、イエスの義、信仰こそが、権力者の前に出るのにふさわしい、きよい礼服なのであって、「自分で織り出(い)だせし義の衣」などではないと、釘を刺している。


「自分で織り出(い)だせし義の衣」は、必ずしも悪いものではないかもしれない。


けれども、世俗的な評価や、自分を他人よりも美しく、すぐれたものとして見せようとする、悲しい虚栄や欺瞞が、入り込みやすいものであるかもしれない。




ことば


文中に出てくる「婚筵(こんえん)」は、結婚式で用意されている座席のことだと思われる。「筵(むしろ)」は、植物を編んで作った席の総称。



いまは見かけないことばだけれど、青空文庫のダンテ「神曲」には、複数の用例があるようだ。

内村鑑三「一日一生」メモ・十一月八日



国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている、内村鑑三「一日一生」を少しづつ読んでいるので、そのメモを書き留めます。





内村鑑三「一日一生」は、1年365日分の聖書からの引用と、それについての言葉が書かれている本です。


聖書の文言も含めて、すべて旧字旧かなで書かれていますが、読みやすいように、できるだけ新字新かなにあらためてみます。聖書の文言については、Wikisourceの聖書データ(文語)を参照・引用することにします。



十一月八日



太初より有りし所のもの、我等が聞きしところ、目にて見し所、つらつら視て手觸りし所のもの、即ち生命の言につきて、


――この生命すでに顯れ、われら之を見て證をなし、その曾て父と偕に在して、今われらに顯れ給へる永遠の生命を汝らに告ぐ――


(ヨハネの第一の書 第1章 1-2節 文語訳)


初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について―


このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである―


(ヨハネの第一の手紙 第1章 1-2節 口語訳)


キリスト教は理論にあらずして事実なり、実験なり。理論のみをもってキリスト教を悟らんとするは、理論のみをもって化学を研究せんとするがごとし。理論のみをもってしては、吾人は到底キリスト教の何者たるかを了解しあたわざるなり。博士ハックスレー曰へるあり「哲理の聖殿において拝せんとするものは、まず実験室の前殿を通過せざるべからず」と。余輩もまた言わんと欲す「キリスト教の聖殿Holy of Holies)において霊なる神に接せんと欲するものは、まず心情の実験室を通過せざるべからず」と。歴史家ネアンデルのいわゆる「神学の中心は心情なり」との意も、けだしここに基するならむ。


内村鑑三 「一日一生」より(国立国会図書館デジタルデータ版参照)


http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1019336



文中の「ハックスレー博士」は、19世紀の生物学者のトマス・ヘンリー・ハクスリー博士でしょうか。


ダーウィンの進化論を擁護し、激しい論戦の矢面に立ったとして知られている、トマス・ヘンリー・ハクスリー博士は、実証を重んじる生物学者であると同時に、聖書の普及によって、科学としての進化論を、聖書の倫理、道義とを和解させようと努力したのだといいます。


旧約聖書の創世記には、多様な地上の生物が「進化論的に発生したとは」書かれていませんけれども、そうでないとも書かれていません。


世界を作った存在にとっての7日間は、1日=24時間ではなく、生物が進化を遂げるのに十分なほど、長かったかもしれません。


内村鑑三が読んだと思われる、ハクスリー博士の著作のなかで、そのあたりについて、どのように語られているのか、興味深いです。


信仰が自分の感情の事実を踏まえたものであるとする、内村鑑三の考え方にも、素直にうなづけるものがあります。聖書に限らず、多様な心情を経験していなければ、どんな本を読んだって分からないのですから。