だっきたん小屋

主に読書記録ですが、話があちこちに飛ぶ傾向があります。

皮肉

「正しい」という印のついた主張の周りには、対立や、憎悪が多く巻き起こるのは、なぜなのか。


あなたがたに言っておく。女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人物はいない。しかし、神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい。


これを聞いた民衆は皆、また取税人たちも、ヨハネのバプテスマを受けて神の正しいことを認めた。


(しかし、パリサイ人と律法学者たちとは彼からバプテスマを受けないで、自分たちに対する神のみこころを無にした。) 


  (ルカによる福音書 7章 28-30節)



聖書を読んでいると、人々が分断され、互いに存在を否定しあう姿は、古代社会においても、現代と変わりなく見られたのだということが分かります。


自分が正しいと強く思う人ほど、心がかたくなになると同時に、「正しくない」相手を排斥し、罰しようとする心が強くなるものだと思います。


倫理や道徳にかかわることで、完全に「正しい」ふるまいをすることなど、ほんとうにあるのかどうか。強い糾弾や、懲罰を求める声が大きくしているものが、実は満たされない個人的な欲の変質したものだったりしないのかどうか、見きわめる必要があるようなことも、よくあるように思います。


聖書の中で「正しい」とされたことは、同時代ではキリスト教徒の迫害を生みましたが、時代が下ると、今度は異教や異文化の排斥を生むことになります。人間は、一体いつまで、刃物にかけられた振り子のように、揺れ動きつづけては落ちるということを繰り返すのかと思います。



(´・ω・`)

マンガ読んだ記録

基本的に心霊系は読まないんですけど、Amazon unlimitedで読み放題になっていたので、つい興味本位で購読。


小林薫・斎「因縁の家系」(セブンネットショッピング)



ハマッてしまいました。orz


ドロドロした話なんですけど、主人公の霊能者・斎さんという人が、ものすごくサバサバしてて、男前なんです(でも女性)。


戦国時代に敵対していた家の女性に呪詛をかけられて、病人ばかり出ている相談者のエピソードが印象的でした。斎さんは、呪詛の主を強制送還(?)したあと、被害を受けていた姉妹に、こう言います。



「これからは、何事もネガティブにとらえないで、前向きに生きる努力をして。そうすれば光も見えてくる。呪詛から解放されて運気を挙げていくのは、お守りやお札なんかのものじゃなく、自分自身が陽の気を集めるという努力なんだからね」



人間同士でも、類友(るいとも)ってありますけども、陰気にネガティブに暮らしていたら、あまりいいことは起きない気がします。



というわけで、毎日一回はバカ笑いして明るく暮らしたいなあと思う、今日この頃でした。












報道による二次被害が心配になる

連日、相模原の障害者殺害事件の報道がありますが…



あれを見ていて、なんともいえないおぞましさを感じるのは、あの犯罪の性質ばかりのせいではないように思っています。



繰り返し繰り返し、犯人の「思想」や、犯行時の行動が、報道されています。それはもう、しつこいくらいに。


特異な事件ですから、しかたがないのかもしれません。


けれども、このような報道が繰り返されるほど、実際に生きて、暮らしている、重度心身障害者のリアリティが、ぼやけて見えなくなってしまうような気がして、それが気持ち悪いのです。





「反応ない人」という言葉でくくられてしまっている、被害者の方々には、痛みや、生きてきたこれまでの月日の重さ、守り育ててきた家族や、介護してきた方々の深い思い、葛藤、共に生きるさまざまな感情が、当然のごとくあるはずなのに……それらが、全く見えてこないのです。



今回、ご遺族の方々の意向ということで、ほとんどの被害者のお名前が報道されない状態となっています。それは、しかたがないこととは思います。私自身、もしも息子(重度の障害があります)が、このような犯罪の被害にあったなら、進んで名乗ろうとは、とても思えなかったでしょう。繰り返し繰り返し、亡くなったときの詳細な状況とともに、我が子の名前が報道されてしまう苦しさは、想像するに余りあります。


それだけに、報道する際には、お一人お一人が,かけがえのない存在であったこと、残された方々が、言葉で言い尽くせないほど傷ついていることを、しっかりと、丁寧に、伝えてもらえないものかと。



ネットを見ていると、「財政難の折であるからこそ重度障害者には安楽死を考えるべき」などという、犯人と同じ意見を、ほんとうに気軽に、良識的提案として、書き込んでいる人が少なからず見られます。


果たして、その「死」が合法化され、制度化されたとき、大多数の方々が、身近な人の死を、自分の責任において選択し、判断しなくてはならないという、とんでもない状況に置かれることになると、分かった上で発言しておられるのかどうか。



私は思います。
ここの国の方々の大半は、みな心優しい方々です。だから、


「自分がラクしてお金を節約するために、弱い立場の人を殺す」


ということに、おそらく精神的に耐えられないだろうと。


数百万人とも言われる、重度の障害者の方々の、累々たる屍を見ながら、心楽しく暮らせるような人は、おそらく、ほとんどいないはずです。


ですが……




このような報道が、多くの人の無意識の領域に働きかけて、「安楽死も社会制度として考慮すべきではないか」という問題提起の薄気味悪さに蓋をしてしまい、気づかないうちに、重度障害者の方々の命の重さを、見間違うようになることがあるのではないかと、ほんとうに、心配になります。





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