内村鑑三「一日一生」メモ・十一月十日
国立国会図書館のデジタルコレクションで公開されている、内村鑑三の「一日一生」を、一日一ページづつ読んでいます。
本書で一日ごとに引用されている聖書のことばについては、Wikisauceの文語版聖書、および、口語訳聖書を参照し、そちらに差し替えています。
また、読みやすいように、ある程度、新字新かな表記に、あらためてみています。
(目下試行錯誤中です)
十一月十日
天にいますものよ我なんぢにむかひて目をあぐ
みよ僕その主の手に目をそそぎ 婢女その主母の手に目をそそぐがごとく われらはわが神ヱホバに目をそそぎて そのわれを憐みたまはんことをまつ
(文語訳聖書 詩篇 123篇 1-2節)
天に座しておられる者よ、わたしはあなたにむかって目をあげます。
見よ、しもべがその主人の手に目をそそぎ、はしためがその主婦の手に目をそそぐように、われらはわれらの神、主に目をそそいで、われらをあわれまれるのを待ちます。
(口語訳聖書 詩篇 123篇 1-2節)
信仰の道は易いかな、ただ任せ奉れば足る。然れば光明(ひかり)我に臨(きた)り、能力(ちから)我に加わり、汚穢(けがれ)我を去り、聖霊われに宿る。
信仰は完全に達するの捷路(ちかみち)なり。
知識の径(こみち)を辿(たどる)がごとくならず、修養の山を攀(よ)ずるがごとくならず。
信仰は鷲(わし)のごとくに翼を張りて直(ただち)に神の懐に達す。
学は幽暗を照らすための燈(ともしび)なり、徳は暗夜に道を探るための杖なり。
然れども信仰は義の太陽なり。我らはその照らすところとなりて、恩恵(めぐみ)の大道(たいどう)を闊歩し、心に神を賛美しながら我らの旅行を終わり得るなり。
(内村鑑三「一日一生」十一月十日の記事より)
詩篇の123篇は、このあと、次のような言葉が続きます。
主よ、われらをあわれんでください。われらをあわれんでください。われらに侮りが満ちあふれています。
思い煩いのない者のあざけりと、高ぶる者の侮りとは、われらの魂に満ちあふれています。
(詩篇 第123篇 3-4節 口語訳)
「あざけり」「侮(あなど)り」は、他者と自分をくらべて、自分の優越性を確信したり、誇示しようとしたりすることからことから生まれてくる心の動きです。
努力して目的をかなえたり、厳しい訓練によってすぐれた知識や能力を獲得したりすれば、世の中で称賛され、高い評価を得ることができます。
けれども、そうした価値観にばかり気を取られていると、「あざけり」や「侮り」といった暗い感情に囚われやすくなるものだろうと思います。
他人をあざけり侮る人も、他人にあざけられることを恐れて劣等感に苦しむ人も、同じように、優劣を競う価値観に囚われているということになるのでしょう。
信仰が、努力して優れた存在になることを目指すようなものではないということを、聖書は繰り返し、いろいろな形で教えているように思います。
努力しなければ価値のある存在になれないと思っている人にとって、
「信仰の道は易いかな、ただ任せ奉れば足る。」
「信仰は完全に達するの捷路(ちかみち)なり。」
という、キリスト教の考え方を理解することほど、困難なことはないかもしれません。
老いて、あるいは病を得て、どうにも努力しようもなくなったとき、あるいは、努力して手に入れた何かを失ってしまったときこそ、こうしたことばが心にしみる機会であるかもしれません。
ことば
「捷路(ちかみち)」の「捷(しょう)」という漢字を、今回はじめて目にしました。
意味は、
・勝つ
・すばやい
・近道
などだそうです。
ここでは「ちかみち」のルビが振られていましたが、音読みで「しょうろ」とも読むようです。
「捷(しょう)」は、漢字検定では、準一級相当の字であるとのこと。
現代日本語の文章では、なかなか読み書きする機会がなさそうですが、内村鑑三の著作のように、明治、大正期に書かれた文章では、出会うことがありそうです。
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