だっきたん小屋

主に読書記録ですが、話があちこちに飛ぶ傾向があります。

原勝郎と山田風太郎

前にブログの中に引用した、原勝郎という明治時代の歴史家の名前を、思いがけず、山田風太郎の小説のなかで見かけたので、覚え書きとして引用しておきます。



それはともかく、碩学原勝郎はその名著「東山時代に於ける一縉紳(しんしん)の生活」の中にいう。「義教は喜怒恒なくして酷薄なる還俗将軍として、一概に非難される人ではあるが、見やうによつては因襲打破に志ある、換言すれば、新時代の魁(さきがけ)をなし得る素質のある有力なる政治家であったのかもしれぬ」


----彼は、百年以上も早く出現しすぎたのである。



山田風太郎「室町の大予言」



「室町の大予言」は、室町幕府の六代目将軍である、足利義教の将軍就任の経緯から、暗殺に到るまでを、おおむね史実に基づいて書かれた歴史小説であって、同じ作者の「くノ一忍法帖」のような、史実に発想を得た荒唐無稽な空想小説ではありません。



でも、作者である山田風太郎が、室町時代の史実を巧みに利用した仕掛けを、随所に施しているため、読んでいるうちに、


「間違えて百年早く生まれてしまった織田信長が、足利義教として万人恐怖と言われるような政治を敷き、比叡山延暦寺を制圧したりなどして暗殺され、百年後にもう一度生まれなおして恐怖政治を行い、比叡山を焼き討ちしたりなどして、やっぱり暗殺される物語」


を読んでいるような気分にさせられます。


上に引用した、原勝郎の「東山時代に於ける一縉紳(しんしん)の生活」についての記述も、そのように読者の意識を導いていく仕掛けの一部です。



山田風太郎の「室町の大予言」は、「室町少年倶楽部」に収録されています。


室町少年倶楽部 (文春文庫)
室町少年倶楽部 (文春文庫)
文藝春秋
2012-09-20
Kindle本


この日記を書いている時点では、この本のkindle版が、Amazonの読み放題サービスで読めるようになっています。


室町幕府があったことは知っていても、足利義教将軍の名前は全く知らなかったような、歴史オンチの私でも、面白く読めました。

内村鑑三「一日一生」メモ・十二月十四日



国立国会図書館のデジタルコレクションで公開されている、内村鑑三の「一日一生」を、一日一ページづつ読んでいます。





本書で一日ごとに引用されている聖書のことばについては、Wikisauceの文語版聖書、および、口語訳聖書を参照し、そちらに差し替えています。


また、読みやすいように、ある程度、新字新かな表記に、あらためてみています。(目下試行錯誤中です)



十二月十四日


然どヱホバ言たまふ 今にても汝ら斷食と哭泣と悲哀とをなし心をつくして我に歸れ


汝ら衣を裂かずして心を裂き汝等の神ヱホバに歸るべし 彼は恩惠あり憐憫ありかつ怒ることゆるく愛憐大にして災害をなすを悔たまふなり


(ヨエル書 第2章 12-13節)



主は言われる、「今からでも、あなたがたは心をつくし、断食と嘆きと、悲しみとをもってわたしに帰れ。あなたがたは衣服ではなく、心を裂け」。あなたがたの神、主に帰れ。主は恵みあり、あわれみあり、怒ることがおそく、いつくしみが豊かで、災を思いかえされるからである。


(ヨエル書 第2章 12-13節)




キリスト教は西洋の宗教にあらず、また東洋の宗教にあらず。

キリスト教はこの世の宗教にあらず、天国の宗教なり。


キリスト教を解するの困難は、あるいはギリシャ哲学をもって、あるいはインド哲学をもってこれを解せんとするにあり。


キリスト教はこの世の哲学をもってしては到底理解し得ざるものなり。


「イエス曰(い)いけるは、人もし新たに生まれずば神の国を見ることあたわず」と。新生の恩恵(めぐみ)にあずからずして、東洋の儒者も西洋の哲学者もキリスト教の何たるかを会得する能わず。





バチカンがヨーロッパにあるので、キリスト教はどうしても西洋のイメージが強いですが、そもそも地上の文化に由来するものではないと、内村鑑三は書いています。


ここのページを書き写してから、ふと思いついて調べてみたのですが、インドでは、ヒンドゥ教、イスラム教に続いて、キリスト教の人口が多いのだそうで、一千万人以上のカトリック信者がいるのだとのこと。




ちょっと意外に感じましたが、考えてみれば、マザー・テレサが活動していたのはインドでしたし、世界第二位といわれるインドの人口を考えれば、不思議ではないのかもしれません。

内村鑑三「一日一生」メモ・十一月十ニ日「愛」



国立国会図書館のデジタルコレクションで公開されている、内村鑑三の「一日一生」を、一日一ページづつ読んでいます。



本書で一日ごとに引用されている聖書のことばについては、Wikisauceの文語版聖書、および、口語訳聖書を参照し、そちらに差し替えています。


また、読みやすいように、ある程度、新字新かな表記に、あらためてみています。(目下試行錯誤中です)



十一月十二日 


たとひ我もろもろの國人の言および御使の言を語るとも、愛なくば鳴る鐘や響く鐃鈸(にゅうはち)の如し。


假令われ預言する能力あり、又すべての奧義と凡ての知識とに達し、また山を移すほどの大なる信仰ありとも、愛なくば數ふるに足らず。


たとひ我わが財産をことごとく施し、又わが體を燒かるる爲に付すとも、愛なくば我に益なし。


愛は寛容にして慈悲あり。愛は妬まず、愛は誇らず、驕らず、非禮を行はず、己の利を求めず、憤ほらず、人の惡を念はず、不義を喜ばずして、眞理の喜ぶところを喜び、凡そ事忍び、おほよそ事信じ、おほよそ事望み、おほよそ事耐ふるなり。


(コリント前書 13章1-7節) 文語訳




たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢(にゅうはち)と同じである。


たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。


たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。


愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。


不義を喜ばないで真理を喜ぶ。


そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。



(コリント人への第一の手紙 13章1-7節) 口語訳



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神の神たるは人の善きを思うて悪しきを思わざるにあり。悪魔の悪魔たるは、人の悪しきをのみ思い得て人の善きを思い得ざるにあり。


神は人の善性を喚起奨励して世を救い、悪魔は彼の悪性を刺激増長してついにこれを亡ぼす。


救済(すくい)といい、改良といい、善の奨励にほかならざるなり。



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「愛は寛容にして慈悲あり。愛は妬まず、愛は誇らず、驕らず、非禮を行はず、己の利を求めず、憤ほらず、人の惡を念はず」


このように説明される「愛」の性質を、ことごとくひっくり返してみると、


非寛容で無慈悲で怒りに満ちた態度を貫き、妬みや驕りの心に根差した無礼な侮蔑の言葉ばかりを使い、相手を自分の都合のいい道具と考える


見事な「毒親」の説明になります。


毒親(読み)どくおや


子どもを自分の支配下に置き、その人生に有害な影響を与える親を指す俗語。米国の精神医学者スーザン・フォワードによる書籍『毒になる親』から派生した造語で、同書の邦訳版が1999年に出版されて以降、広く知られるようになった。子どもへの暴力的・性的な虐待や育児放棄だけでなく、精神的な虐待や過度な干渉も毒親の特徴とされる。毒親による歪んだ親子関係は子どもに深刻な心的外傷を与え、その影響で成人後も対人関係に問題を抱えたり、依存症に陥ったりして苦しむケースも少なくない。(2015-4-09)


(コトバンク 知恵蔵miniの解説 )




また、「毒教師」「バワハラ・モラハラ上司」の説明としても、通用しそうです。


こんな人物に身近に居座られて、刺激増長を受け続けたら、歪んだ人格に育って加害の連鎖を引き起こすか、うつ病などになって苦しむようになるかの、どちらかだろうと思います。


愛がなければ人は亡びるというのは、そういう意味でもそのとおりだと思います。