だっきたん小屋

主に読書記録ですが、話があちこちに飛ぶ傾向があります。

非難


それから女の方に振り向いて、シモンに言われた、「この女を見ないか。わたしがあなたの家にはいってきた時に、あなたは足を洗う水をくれなかった。


ところが、この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でふいてくれた。あなたはわたしに接吻をしてくれなかったが、彼女はわたしが家にはいった時から、わたしの足に接吻をしてやまなかった。あなたはわたしの頭に油を塗ってくれなかったが、彼女はわたしの足に香油を塗ってくれた。


それで あなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない。


そして女に、「あなたの罪はゆるされた」と言われた。

すると同席の者たちが心の中で言いはじめた、「罪をゆるすことさえするこの人は、いったい、何者だろう」。


しかし、イエスは女にむかって言われた、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。


(ルカによる福音書 7章 44-50節)


罪の女として、街中で非難されているような女性が、悔い改めて信仰の心を深くしている姿を見ても、パリサイ人は軽蔑の心を向けるだけでした。けれども、イエスがその女性を許したので、その場にいた人々は大変驚きます。


善悪のけじめをつけることが社会を守る正義であると考えるなら、罰せられていない罪人が許されるということは、ありえないことになります。


けれども、社会的な刑罰と、その人の心が「ゆるされ」て「救われる」ことは、全く別の次元のことなのでしょう。


社会に所属して暮らしていれば、そのなかの調和を乱すような人を許せないと感じて、非難する心を持つことは、誰にでもあるものだと思いますが、それに囚われ続けると、見えなくなるものもあると思います。