内村鑑三「一日一生」メモ・十一月九日
内村鑑三の「一日一生」を、一日一ページづつ読んでいます。
本書で一日ごとに引用されている聖書については、Wikisauceの文語版聖書、および、口語訳聖書を参照し、そちらに差し替えています。
また、読みやすいように、旧字旧かなを、できるだけ新字新かなにあらためてみています。
十一月九日
ただ汝ら主イエス・キリストを衣よ、肉の慾のために備すな。
(ロマ書 第13章14節)
あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。
(口語訳 ローマ人への手紙 第13章14節)
イエスは我等の義である。我等は自分で織り出(い)だせし義の衣を着けて王の婚筵(こんえん)の席に出づるのではない。イエスを我が義の衣として着て王の招きに応ずるのである(マタイ伝廿二章)。
是こそは潔くして光ある細布の衣であって、「この細布は聖徒の義なり」とあるその義の衣である(黙示録十九章八節)。
これを除いて他に王の客たるに堪ふるの礼服はないのである。
善き者もこれを着て王の前に出るを得、悪しき者もまたこれを被りて聖筵にあずかることができるのである(マタイ伝廿二章八-十二節)。
信者はイエスにありて神に到り、神はイエスにありて信者を接(う)け給うのである。
ローマ人への手紙(ロマ書)の第十三章では、地上の支配者、権力者は、神の権威によって建てられたものであり、人々の益のために尽くす神の僕(しもべ)であるのだから、人々も、良心をもって支配者にしたがうべきである、と書かれている。社会の仕組みに対するキリスト教の考え方が、よく表れている箇所であると思う。
この節を引用したあとにつづく、内村鑑三のことばは、イエスの義、信仰こそが、権力者の前に出るのにふさわしい、きよい礼服なのであって、「自分で織り出(い)だせし義の衣」などではないと、釘を刺している。
「自分で織り出(い)だせし義の衣」は、必ずしも悪いものではないかもしれない。
けれども、世俗的な評価や、自分を他人よりも美しく、すぐれたものとして見せようとする、悲しい虚栄や欺瞞が、入り込みやすいものであるかもしれない。
ことば
文中に出てくる「婚筵(こんえん)」は、結婚式で用意されている座席のことだと思われる。「筵(むしろ)」は、植物を編んで作った席の総称。
いまは見かけないことばだけれど、青空文庫のダンテ「神曲」には、複数の用例があるようだ。
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