だっきたん小屋

主に読書記録ですが、話があちこちに飛ぶ傾向があります。

明治時代語の楽しみと、キリスト教

ここのところ、内村鑑三の「一日一生」についての記事や、聖書についてのとりとめもない記事を、日記がわりに書いていますが、私はクリスチャンではありません。


この数年は、たまたま御縁のあった教会の日曜礼拝に毎週通って牧師様のお話をうかがうようになり、週のうちの半分は聖書の文章を少し読んだり、キリスト教関連の本を読んだりするいうことが、習慣化しつつあります。


内村鑑三の文章を読むようになった最初のきっかけは、明治期の文章語への興味からでした。


水村美苗氏の「日本語がほろびるとき」という本で、「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」が取り上げられていて、その文語文の魅力が生き生きと語られていたので、ぜひ自分でも読んでみたいと思ったのです。


けれども、残念ながら、青空文庫には「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」は入っておらず、活字の小さい、古い文庫本で読むことは、視力的に(老眼的に)厳しかったので、kindle版で、「ぼくはいかにしてキリスト教徒になったか」(光文社古典新訳文庫)という、現代語訳されたものを読みました。



ぼくはいかにしてキリスト教徒になったか (光文社古典新訳文庫)
ぼくはいかにしてキリスト教徒になったか (光文社古典新訳文庫)
光文社
2015-09-25
Kindle本



これはこれで、興味深い本でしたが、「余は」が「ぼくは」になると、内容が同じでも、見える世界が全然ちがってきます。やっぱり文語で内村鑑三の著作を読みたいと思いました。


それでいろいろ探していたところ、国会図書館デジタル図書館に収録された、「一日一生」を見つけたのでした。






内村鑑三「一日一生」



こちらは、大正十五年に発行された本の画像データですので、kindle本のようにテキスト全文検索などはできませんが、見えにくいときには、思いっきり拡大することができます。老眼にとって、これほどありがたいことはありません。拡大すると、前の持ち主が鉛筆で傍線を引いたあとなども見えて、それもまた面白かったりします。


内村鑑三の本を読みはじめたのと同じころに、三浦綾子の「氷点」や「塩狩峠」などの代表作を読む機会もあり、明治期から昭和にかけての、日本国内のキリスト教がどうであったのかということにも、興味が出てきました。



氷点(上) (角川文庫)
氷点(上) (角川文庫)
角川書店(角川グループパブリッシング)



その後、「一日一生」が、教文館から新版として出版されていることを知ったのですが、それを購入するのではなく、このまま国立国会図書館デジタルデータのほうで読み進めていこうと思っています。



一日一生
一日一生
教文館

内村鑑三「一日一生」メモ・十一月十一日


国立国会図書館のデジタルコレクションで公開されている、内村鑑三の「一日一生」を、一日一ページづつ読んでいます。


本書で一日ごとに引用されている聖書のことばについては、Wikisauceの文語版聖書、および、口語訳聖書を参照し、そちらに差し替えています。


また、読みやすいように、ある程度、新字新かな表記に、あらためてみています。
(目下試行錯誤中です)





十一月十一日

この故に我らは斯く多くの證人に雲のごとく圍まれたれば、凡ての重荷と纏へる罪とを除け、忍耐をもて我らの前に置かれたる馳場をはしり、信仰の導師また之を全うする者なるイエスを仰ぎ見るべし。


彼はその前に置かれたる歡喜のために、恥をも厭はずして十字架をしのび、遂に神の御座の右に坐し給へり。


なんじら倦み疲れて心を喪ふこと莫(なか)らんために、罪人らの斯く己に逆ひしことを忍び給へる者をおもへ。


(ヘブル人への書 第12章 1-3 文語訳)



こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。


信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。


あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。


(へブル人への手紙 第12章 1-3節 口語訳)


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我らは救わるるために何をなすべきかと問うに、ただイエスを仰ぎみんとのみと答ふるまでである。


祈祷が聴かるるも聴かれざるも、災禍(わざわい)が臨むも臨まざるも、罪が潔(きよ)めらるるも潔められざるも、ただイエスを仰ぎみるべきである。


キリスト者の信仰は、儒者のそれのごとくに内省的であってはならない。


仰瞻的(ぎょうせんてき)でなくてはならない。汚れたる自己(おのれ)を日に三度(みたび)ならで、百度(ももたび)千度(ちたび)省みたればとて、それで自己の潔まりようはずはないのである。




心のなかで、どれほど反省し、思索をめぐらしたところで、きよめられることも、救われることもないと、内村鑑三は断言しています。


苦しいときに、自分をひたすら責めていても、「倦み疲れて心を喪ふ」ばかりだということは、挫折や困難に出会った人の多くが、経験したことだと思います。




ことば


「仰瞻的(ぎょうせんてき)」は、初めてみることばでした。


青空文庫を検索すると、次のような例がありました。



しかるに旦暮仰瞻(ぎょうせん)しようという法然善恵の肖像を、武家の顰(ひそみ)にならって狩野家に頼むことをせずに、これを土佐光茂に頼んだということは、簡単にこれを出来心とのみ解釈するよりも、彼の浄土教好尚のおもむくところに従ったのだとする方が、むしろ適切な説明ではあるまいか。


原勝郎「東山時代における一縉紳の生活」 青空文庫


「縉紳(しんしん)」は、身分の高い人物のことで、ここでは三条西実隆(さんじょうにしさねたか)のこと。室町時代の公家で、「実隆公記」の著者。文化人として大きな業績を残した人ですが、歴史家であり文学者でもあった原勝郎は、三条西実隆の人生や美意識に、法然と浄土宗が大きな影響を与えたであろうと考えたようです。


「仰瞻」の用例がほかにないか、ネット検索で探してみましたが、漢文、中国語の用例がほとんどのようです。


原勝郎は、明治4生(1871年)まれ。
内村鑑三は、万延2年(1861年)生まれ。


当時の人たちにとっては、当たり前の教養として身に着けていた漢詩文から、文章語としての使用語彙となったことばも多かったかもしれません。



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引用させていただいたWikisoure、青空文庫のテキスト




内村鑑三「一日一生」メモ・十一月十日

国立国会図書館のデジタルコレクションで公開されている、内村鑑三の「一日一生」を、一日一ページづつ読んでいます。


本書で一日ごとに引用されている聖書のことばについては、Wikisauceの文語版聖書、および、口語訳聖書を参照し、そちらに差し替えています。



また、読みやすいように、ある程度、新字新かな表記に、あらためてみています。
(目下試行錯誤中です)




十一月十日


天にいますものよ我なんぢにむかひて目をあぐ


みよ僕その主の手に目をそそぎ 婢女その主母の手に目をそそぐがごとく われらはわが神ヱホバに目をそそぎて そのわれを憐みたまはんことをまつ

(文語訳聖書 詩篇 123篇 1-2節)



天に座しておられる者よ、わたしはあなたにむかって目をあげます。


見よ、しもべがその主人の手に目をそそぎ、はしためがその主婦の手に目をそそぐように、われらはわれらの神、主に目をそそいで、われらをあわれまれるのを待ちます。


(口語訳聖書 詩篇 123篇 1-2節)



信仰の道は易いかな、ただ任せ奉れば足る。然れば光明(ひかり)我に臨(きた)り、能力(ちから)我に加わり、汚穢(けがれ)我を去り、聖霊われに宿る。


信仰は完全に達するの捷路(ちかみち)なり。

知識の径(こみち)を辿(たどる)がごとくならず、修養の山を攀(よ)ずるがごとくならず。


信仰は鷲(わし)のごとくに翼を張りて直(ただち)に神の懐に達す。


学は幽暗を照らすための燈(ともしび)なり、徳は暗夜に道を探るための杖なり。


然れども信仰は義の太陽なり。我らはその照らすところとなりて、恩恵(めぐみ)の大道(たいどう)を闊歩し、心に神を賛美しながら我らの旅行を終わり得るなり。


(内村鑑三「一日一生」十一月十日の記事より)



詩篇の123篇は、このあと、次のような言葉が続きます。


主よ、われらをあわれんでください。われらをあわれんでください。われらに侮りが満ちあふれています。


思い煩いのない者のあざけりと、高ぶる者の侮りとは、われらの魂に満ちあふれています。


(詩篇 第123篇 3-4節 口語訳)


「あざけり」「侮(あなど)り」は、他者と自分をくらべて、自分の優越性を確信したり、誇示しようとしたりすることからことから生まれてくる心の動きです。


努力して目的をかなえたり、厳しい訓練によってすぐれた知識や能力を獲得したりすれば、世の中で称賛され、高い評価を得ることができます。


けれども、そうした価値観にばかり気を取られていると、「あざけり」や「侮り」といった暗い感情に囚われやすくなるものだろうと思います。


他人をあざけり侮る人も、他人にあざけられることを恐れて劣等感に苦しむ人も、同じように、優劣を競う価値観に囚われているということになるのでしょう。


信仰が、努力して優れた存在になることを目指すようなものではないということを、聖書は繰り返し、いろいろな形で教えているように思います。


努力しなければ価値のある存在になれないと思っている人にとって、


「信仰の道は易いかな、ただ任せ奉れば足る。」
「信仰は完全に達するの捷路(ちかみち)なり。」


という、キリスト教の考え方を理解することほど、困難なことはないかもしれません。


老いて、あるいは病を得て、どうにも努力しようもなくなったとき、あるいは、努力して手に入れた何かを失ってしまったときこそ、こうしたことばが心にしみる機会であるかもしれません。




ことば


「捷路(ちかみち)」「捷(しょう)」という漢字を、今回はじめて目にしました。


意味は、


・勝つ
・すばやい
・近道


などだそうです。


ここでは「ちかみち」のルビが振られていましたが、音読みで「しょうろ」とも読むようです。


「捷(しょう)」は、漢字検定では、準一級相当の字であるとのこと。


現代日本語の文章では、なかなか読み書きする機会がなさそうですが、内村鑑三の著作のように、明治、大正期に書かれた文章では、出会うことがありそうです。