だっきたん小屋

主に読書記録ですが、話があちこちに飛ぶ傾向があります。

報道による二次被害が心配になる

連日、相模原の障害者殺害事件の報道がありますが…



あれを見ていて、なんともいえないおぞましさを感じるのは、あの犯罪の性質ばかりのせいではないように思っています。



繰り返し繰り返し、犯人の「思想」や、犯行時の行動が、報道されています。それはもう、しつこいくらいに。


特異な事件ですから、しかたがないのかもしれません。


けれども、このような報道が繰り返されるほど、実際に生きて、暮らしている、重度心身障害者のリアリティが、ぼやけて見えなくなってしまうような気がして、それが気持ち悪いのです。





「反応ない人」という言葉でくくられてしまっている、被害者の方々には、痛みや、生きてきたこれまでの月日の重さ、守り育ててきた家族や、介護してきた方々の深い思い、葛藤、共に生きるさまざまな感情が、当然のごとくあるはずなのに……それらが、全く見えてこないのです。



今回、ご遺族の方々の意向ということで、ほとんどの被害者のお名前が報道されない状態となっています。それは、しかたがないこととは思います。私自身、もしも息子(重度の障害があります)が、このような犯罪の被害にあったなら、進んで名乗ろうとは、とても思えなかったでしょう。繰り返し繰り返し、亡くなったときの詳細な状況とともに、我が子の名前が報道されてしまう苦しさは、想像するに余りあります。


それだけに、報道する際には、お一人お一人が,かけがえのない存在であったこと、残された方々が、言葉で言い尽くせないほど傷ついていることを、しっかりと、丁寧に、伝えてもらえないものかと。



ネットを見ていると、「財政難の折であるからこそ重度障害者には安楽死を考えるべき」などという、犯人と同じ意見を、ほんとうに気軽に、良識的提案として、書き込んでいる人が少なからず見られます。


果たして、その「死」が合法化され、制度化されたとき、大多数の方々が、身近な人の死を、自分の責任において選択し、判断しなくてはならないという、とんでもない状況に置かれることになると、分かった上で発言しておられるのかどうか。



私は思います。
ここの国の方々の大半は、みな心優しい方々です。だから、


「自分がラクしてお金を節約するために、弱い立場の人を殺す」


ということに、おそらく精神的に耐えられないだろうと。


数百万人とも言われる、重度の障害者の方々の、累々たる屍を見ながら、心楽しく暮らせるような人は、おそらく、ほとんどいないはずです。


ですが……




このような報道が、多くの人の無意識の領域に働きかけて、「安楽死も社会制度として考慮すべきではないか」という問題提起の薄気味悪さに蓋をしてしまい、気づかないうちに、重度障害者の方々の命の重さを、見間違うようになることがあるのではないかと、ほんとうに、心配になります。





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